我もまたアルカディアにあり ☆☆☆
働かずとも生活が保証されるアルカディアマンションを軸とした、左右で瞳の色が違う人達の世界の終末への物語。
まず思ったのが、私がアルカディアマンションの住人となったら一日中何もせずボーっと本を読んだりアニメを見たりして窓のない部屋で過ごす人生になりそうだなってこと。この世を担い支えて回している全体の2割ではなく、それに寄生している8割だってこと。働かなくていいいのなら、働きたくない。そう思ってしまう。実際にそうなったら暇で仕方がなくて人生に絶望もしそうだけども、結局行動せずに8割の人となるだろうな。
でも、左右で瞳が違う人達は違っていた。孤独を好みながらも何かを成し得ていた。
特に顕著なのが「ペインキラー」での左右の瞳の色が違う人物の一人、陽太だと思う。
何があっても身体を駆動させたいと願った。身体への苦痛こそが生きていると実感できるしとて左官として働き続ける陽太はある時事故によって首から下が指一本動かせなくなる。それでも陽太は苦痛を求め動ける身体を求める。そのためにより困難な道を選択する。
これぞ、労働精神と思う。残酷までの労働への渇望。けども、それは見も知らぬ誰かへの社会への奉仕のための犠牲ではなくただ自分がそうなだけであって、強要されたものではなかった。一種の狂信的な信念。
こういう風に読んでいて思ったってことは、自分にその精神がというか信念がないことと、それへの羨望なんだろうな。
他の左右の瞳の色が違う人達も何かしら信念があっって、それが良いことが悪い子とか望んたことかは別としてこの世を支え回している全体の2割だった。
ただ寄生している8割に含まれていたんじゃないかなと思ったのは、タイトルではなく数字で合間、合間に語られる全ての左右の瞳の色が違う一族の祖先と鳴った御園洛音。
彼は子孫と比べたら平凡だった様に思える。非凡なのは妻であるフーリーであり、彼そのものは至って普通寄りだった気がする。
その彼がこの小説の全編を通しての軸となっているのは思うところがある。
でもそんな彼ら一族に平等に等しく到来するのが「死」であり、「死」が楽園であったはずの閉ざされた世界からの解放だったのかなと思った。
ところで、終末に備えている、という設定はどういうメッセージだったんだろう。
終末という起こるか起こらないか、起こったとしてもいつ起こるのか分からない終末に備えるという事を杞憂と表現して、実際に終末が起こったとしても人類はしぶとく生きていく(実際に2度の終末を特に気にせず乗り切った)だろうと表現するというのは。
ここで一つ思い出したセリフがある。
「どんだけ盛大に思い込みと勘違いで飾り立てられた理想郷にも、死という唯一確実な免罪符は、決して消えずにそこにある。だから好きなだけ間違って好きなだけ迷惑をかけて楽しく行きて、そして死んでしまえばいい。やッたもん勝ちだ。」
「我もまたアルカディアにあり」は近年の科学技術である程度は快適に暮らせるが社会的に個人主義が増え繋がりがなく閉じている現在の社会の濃縮圧縮版であり、とかく安全安全と声高に叫びながら不自由になっていく風潮への風刺なのかもしれないと思ったり。
上記のセリフは御園洛音のもの。そしてこの後のセリフで、
「結局俺は、バカ騒ぎに乗り損ねたという後悔だけは認めざるを得なかった。」
と考えているので、私はこの人は8割の人だったのかなぁと思ったのかもしれないなぁ。